2009年1月12日月曜日

日本とその周辺の「海」を守る海上保安庁 「羽田特別救難基地」見学記 その5

羽田空港の整備場地区にある「海上保安庁」施設見学1 その3


 今回はテレビと映画で有名になった「海猿」こと「海上保安庁特殊救難隊」の羽田基地を見学しました。映画で見たイメージとは違い冷静沈着、日本のどこへでも数時間の内にジェットとヘリを乗り継いで駆けつけ、海上の遭難船に乗り移ったり、すかさず潜水するという世界的に見ても極めて高度な救難技術を持つ集団である。ご自身も特救隊であった宮崎専門官から懇切丁寧な説明と施設見学の案内をしていただいた。



ここでは本物の”海猿”に会えました。この特殊救難隊は36人しかいなくて、しかも男性のみ。ちょっと迫力がありました。今までの救助活動の様子のビデオを見せてもらいましたが、本当に危険なところへ命がけで救助に行っていることがわかりました。その姿はかっこよくて素敵でした。ちなみに”海猿”の方々はモテるそうです。部屋の壁にはたくさん表彰もされていて賞状が掛かっていました。これからも気をつけて、頑張ってほしいです!!

それから、海上保安庁の見学はヘリの中を詳しく説明していただいたり、普段では絶対に知ることのできないようなことまで教えていただいたりして、得るものが多かったように思います。第一線で働いていらっしゃる方々に生でお会いできる機会で本当に勉強になりました。
(かな)




ザイル(ロープ)ワークも極めて重要な救難技術のひとつ



羽田基地の特救隊本部の見学では、特救隊が考案した様々な救出用の補助用具がいつ何時でも利用可能な状態に整理整頓され、いざという時のために羽田基地内の倉庫に保管されている。


特別救助隊の皆さんと・・・・記念写真です!!


海と陸の境はどこに?・・・・
「陸」を守る「県警察(警視庁)」と「海」を守る「海上保安庁」・・・
この違いをご存知でしたか?
川はどちらの範囲(所轄)?
答え:最初の橋が架かっていることこまでは海上保安庁の管轄あそうです!!!



2009年1月11日日曜日

すでに起こってしまった海難事故から1人でも多く、人を救出せよ!「特救隊」(通称「海猿」の最高峰)

「海上保安庁 特殊救難隊(特救隊)」の誕生


(海上保安庁提供)

昭和49年に東京湾で起こったタンカー事故を教訓に生まれた組織(隊員36名)全国の海上保安庁の潜水士のいわゆる「海猿」の頂点に立つ。羽田空港に「海上保安庁特殊救難基地」を設置した。守備範囲は北海道から沖縄までの日本が担当する海難救助の広大な海域をカバーする。あらゆる事故現場まで数時間で到達できる移動能力が要求される。隊員は、出動要請を受けると、羽田基地→小型ジェット機→地方の管区の航空基地→ヘリで現場に到着する。その時間はわずか数時間という。



見学では、基地の担当者から特殊救難隊の概要、誕生の経緯、訓練と実践の状況などを伺った。

今回の見学での感想

ダイアモンド・グレースの事故による重油流出事件

ダイヤモンドグレースは、原油257,042トンを積載し、船首19.39メートル船尾19.85メートルの喫水をもって、アラブ首長国連邦のダスアイランド港を発し、京浜港川崎区の京浜川崎シーバースに向かい、平成9年7月2日浦賀水道航路南方沖合で水先人が乗船し、警戒船2隻を配置してきょう導しながら、浦賀水道航路を通過後、東京湾中ノ瀬西端の浅所に乗り揚げた。
(海難審判庁データ)



座礁後のダイヤモンドグレースから流出した重油の拡散状況

東京湾と海上交通安全法の制定

海上交通安全法(昭和47年7月3日法律第115号)は、東京湾など「船舶交通がふくそうする海域における船舶交通について、特別の交通方法を定めるとともに、その危険を防止するための規制を行なうことにより、船舶交通の安全を図ることを目的とする法律。」と言うことができる。

航路航行義務

 長さが50メートル以上の船舶と危険物搭載船舶は、航路を航行する義務があります。 なお、長さが50メートル未満の船舶には、航路航行義務はありませんが、仮に航路を航行する場合には、以下に掲載している交通ルールを守らなければなりません。

航路の航法

 浦賀水道航路は、航路の中央より右側を航行しなければなりません。(右側通航) 中ノ瀬航路は、北の方向に航行しなければなりなせん。(北の方向への一方通航)

繰り返される東京湾での海難事故



タンカーと貨物船との衝突事故



座礁した大型タンカー(ウィキペディア(Wikipedia)より



自衛艦による事故(http://nari1967.iza.ne.jp/blog/day/20080220/)より

東京湾で起った大型タンカーと貨物船の衝突事故!!


第十雄洋丸とパシフィック/アレス号との海上衝突事故        (1974年11月9日)




 昭和49年11月9日、その日の東京湾は曇りで、視界は4キロ弱くらいであったそうだ。東京湾は世界有数の過密航路で、比較的狭い範囲に大型船が密集するために行き交う船舶も周囲に注意を払いながら航行するのが常だった。
 その東京湾の中ノ瀬航路を北上する大型船が一隻。それは当時日本最大のLPG・石油の混載船である第十雄洋丸(43223重量トン)であり、ペルシャ湾からプロパン、ナフサ、ブタン総計5万7千トンあまりを積み込んであと数時間で川崎港へと着岸するところであった。
 前年に施行された海上衝突予防法により、500m前方にエスコート船「おりおん1号」を走らせ、久しぶりの日本の土を踏むまであと少しではやる気持ちを抑えながらの航海だった。実際、港内最大速度12ノットは「おりおん1号」の全速よりも速く、お互いの距離はどんどん縮まっていた。


 
 一方、そのしばらく前に君津港から一隻の貨物船がすでに出航していた。
こちらはリベリア船籍のパシフィック・アレス号(10874重量トン)、鋼材約15000トンを船腹に納め、ロサンゼルスに向かって出航したばかりの船であった。第十雄洋丸が中ノ瀬航路を航行中、その右舷3キロに接近する貨物船を発見したが、当時まだ航路内だったので舵はそのままにしていた。
一方のパシフィック・アレスも前方に大型タンカーを発見してた……しかし、本船も舵は中央で相変わらず直進するままだった。実はこの時、パシフィック・アレスは中ノ瀬航路の出口をかすめる位置を通過しようとしていたため、双方の船長に「相手がよけるだろう」という思いこみを起こしていた。 
 第十雄洋丸は「自分は航路内を航行しているので、相手が回避してくれる」であり、パシフィック・アレス側は「右舷に自船を見る相手側が回避運動をとってくれる」と思っていたため、双方とも舵は中央で回避すべき時期を逃していた。そして午後1時半頃……双方の船長が危険性に気がついたときにはすでに遅く、双方とも後進全力の面舵をかけていたにもかかわらず、船が効果的な回避運動をとる前にパシフィック・アレスは第十雄洋丸の右舷船首側に食い込むように衝突したという。

出典:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nachi/zakki/yuyo/yuyo_10.html

2009年1月10日土曜日

ペリーが作った東京湾の「海図」が世界へ

嘉永6年(1853)年、初めてペリーの艦隊が江戸湾(現在の東京湾)、浦賀沖に「黒舟」は姿を現した。その翌年の嘉永7年(1854)に再び来港した。この間に、江戸湾に停泊中に作成した海図がある。ペリー艦隊は徳川幕府に開国を迫るばかりでなく、しっかりと江戸湾の海底地形を調査を終えていたことになる。下の「海図」は、おそらくペリーの作成した「海図」の原図にちかいものでだろう。水深は、点のデータで、尋(ファズム、1ファズム=1.8m)で表記されている。



(横浜市開講資料館HP)

下の図は、ペリーが作成したアメリカの「海図」を元データにして作成されたドイツの江戸湾の「海図」である。すでに欧州各国では海洋データの交換、引用が進んでいた。



(提供:日本水路協会)